昭和50年12月28日 朝の御理解



 御神訓
 「一、今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり。
 「一、疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり。」
 昨日は金光教徒お道の新聞が参りました。一番書き出しの所に新発足の運動は、天地書附の実践を基軸という大きな見出しで、いわゆる来年から新たな運動が起こされると言われて居った。その内容が天地書附に絞られる。しかもその実践と言う事である。外にも何ヶ条づつとありますけれども、もう一番中心になる所は天地書附の実践だと、天地書附の実践と言う事はどう言う事であろうか。
 今日の御神訓から頂く御理解を、一心に頼めおかげはわが心にあり、しかも今月今日でとこう、只天地書附を奉唱して、なら今月今日で一生懸命お願いをしてそしてお願いをするというだけではなくて、結局わが心にありと仰せられるのですから、一心に頼む事が愈々わが心を開かせて貰う、頂かして貰うと言う事を一心に頼むと言う事にならなきゃならない。ならどうぞ和賀心にならして下さいというて、なら一心に頼んだだけでは和賀心が開けるとは思われない。
 その実践と言う事を言ってありますから、矢張り御教えを実践して行く。そこから期せずして頂けれる心、そこから改まりもあれば、研かしても頂く。そこからわが心が頂けれる。そのわが心におかげが受けられるとこう言う、そこでそういう例えば御教えを私共が信じて疑わない。おかげを頂かなければならない、疑いを離れて広き真の大道を開き見よ。我身は神徳の中に生かされてあり。そこで疑いを離れて神様を信ずるというか、それはどう言う事かというと、疑いを離れると言う事なのですけれども。
 神様を信ずる稽古が本気で為されなければならないと言う事であります。神様が信じられるおかげを頂くときにです、我身は神徳の中に生かされて在ると言う事が分かって来る。我身は神徳の中に生かされてあると言う事が分かって来れば自ずと心は和賀心になって来る。有難いな勿体無いなという心、和らいだ心が生まれて来る。疑いを去る為には矢張り話を聞いて、聞いただけで疑いが晴れると言う事ではない。分かるだけは分かるけれど、矢張りおかげを頂かねばならん。
 ならおかげを頂く為には、和賀心にならなければならない。疑いを離れる事が出来ると言う事は矢張り神様の間違いないおかげを実感しなければ、なるほど生かされて生きて居ると言う事も、我身は神徳の中に生かされてある事も分からない。分かって来れば和賀心は自ずと生まれて来るとそういう心で、いよいよ今月今日で一心に頼んで行くと言う事。中々難しいところですね。おかげを受ければ神様の有り難さが分かって来る。神様の言う事も聞かして貰う。
 おかげを頂かなかったら、何時まで経っても神様を信ずる心は生まれない。神様がいうなら良い加減なものになってしまう。神様がそれこそ痒い所に手が届く様なおかげを下さる。ならこちらも神様の求めておられる、いうなら神様が痒いといいなさるなら痒い所に手の届く様な行き届いた信心もさせて貰う。けれどもとまあ思いますけれどもそこにはおかげはない。どうでも矢張り神様の願い、いうならば神様が痒いと仰るなら痒い所に手の届く様な行き届いた信心をさせて頂く事が先である。
 私は結局はそこの所のおかげを頂かなければ、今月今日で一心で頼んでおかげは和賀心にありと言われてもです、疑いを離れて広き真の大道を開き見よ、我身は神徳の中に生かされてあると言う事もです、それがそれこそ実感として、そういうおかげの世界に棲む事のための修行が先だと言う事になるのです。そこにいうならば、教えの実践と言う事になります。天地書附の実践と言う事はです、結局私は教祖生神金光大神の言われる事を本当に実意丁寧に実践して行くと言う事から。
 天地書附の芯というか、心が分かって来る。結局和賀心を目指すと言う事も、結局天地書附の実践と言う事も、結局は教えを守り行き届いた信心をさして貰うと言う事以外にない。その行き届いた信心というのもです、教えを矢張り守って行く、実践して行く以外にない。そこから神様が、それこそ行き届いた本当に神様の御働きというものは、一分一厘間違いがないなと言う様な、おかげを頂く事が出来る。
 そこから愈々神様を信ずる信心、愈々」疑うにも疑われない信心が生まれて来る。疑いを離れると言う事も、やはり教えの実践でからしか生まれて来ないし、おかげは和賀心にありといわれるその和賀心も、矢張り教えを実践する所からしか生まれて来ない。しかもそれは、昨日の御理解から頂きますと、一心の真を以て教えに取り組む実践する事以外にない。一心の真それは一心と言う事は一生懸命と言う事である。
 それをも少しいうならば一生懸命と言う事は、一生命を懸けると書いてあるように、言わば命がけと言う事である。真と言う事は本当のことだと言う事である。広き真の大道を開き見よと教えてありますが、言うならば広き真の大道とは、どういう道なのか、一心の真、一生懸命にいうならば命がけで大道に取り組む、そこから真の大道を開き見ることが出来れるおかげが受けられる。広き真の大道を開き見れば、そこには我身は神徳の中に、生かされてあると言う事を、いうなら見神する事が出来る。
 そこに神を見る事が出来る。「天地書附の実践を基軸に、信心の自立と外向きの態度が中心に骨組み」この辺から、私は頼りない様なものを感じて来る。まだ私は読んで居りません。ただこの所だけですけれど、天地書附の実践を基軸にして、そしてその向かう所は、何処にあるかというと、信心の自立と外向きの態度と言う事。天地書附を一生懸命唱えてから一生懸命唱える事だけでなくて、唱えるだけなら容易いでしょう。そりゃ百遍も千遍も唱えることは容易でしょうけれども。
 それを唱えてそれを基軸にして、いうならば他の外の所謂社会の、言うなら世のお役に立たせて頂く信心と言う事が、その骨組みになって居るというのです。けれども私は本当に天地書附の実践と言う事」は、和賀心やわらぎ喜ぶ心が頂けると言う事。そこに信心の事実がある。そのためには今日私が申しました、いうならば教えの実践以外にない。そこには疑うにも疑う余地のない、いうならば真の大道を開き見る事が出来る。真の大道を開き見ると言う事は、そこに見神をすると言う事。
 神をそこに見る事。そこから我身は、神徳の中に生かされてあるという、実感がおかげの元なって、そのおかげがいうならば、合楽でいうならば、愈々示現活動と言う事にもなって行かねばならない。社会に貢献する、信心と言う事にもなって来なければならない。問題は本当にその天地書附の芯を自分が頂くと言う事の為に、どういう信心をさせて頂いたら良いか、と言う事になるとき、こりゃどうでも合楽の信心が一役買わなければ本当のことじゃないじゃろうかと思うです。
 本当いうたらね、天地書附の実践が基軸になるという運動が起こされる事自体が不思議でおかしいですね。私がいうならば、もうこのいわゆる和賀心一つに絞らせて頂いて、和賀心時代を創るという生き方がこんど本部のそのままの生き方になる訳です。和賀心時代を世界の隅々まで広げて行こうという運動です。それをどういうふうになら天地書附の実践にあるというが、どういう風に実践する様に教導されるであろうか。是はまあ自分の事じゃないからよそ事の様に思うけど、よそ事とは思われない。
 矢張りその天地書附の芯を本当に分からして貰えれるおかげを頂く為に、いうならば教えの実践と言う事になる。そこでなら教えの実践と云う例えばこの教祖の御教えというものがです、どの程度に説かれてあるかと言う事です。随分これは説きに説き明かされて居りますけれども、それは一つもおかげに繋がるとか、信心を愈々深いそして広いものにして行く頂き方が出来ていない。
 説いてはあるけどおかげに繋がる所の神徳に繋がる所の頂き方というものをしてないから、今改めて天地書附の事の実践に、と言う様なと言う事になって来るのだ。そこでその金光様の御信心の広さ大きさと言う様なものがです、なら解き明かされておるのは今の合楽以外にないというふうに私は思うのです。だから合楽で頂く御教えをいうならば実践すると言う事はです、その気になれば実践の出来れる事なんだと。
 昨日も修行生の方達の毎日研修を朝の御理解を基にして研修致します中でも、皆さんに私は聞いて貰ったのでしたけれども、例えばあなた方がね、大工になり左官になり、例えばそうだったとしますか、師匠がこの仕事のこつはここにあるぞといって教えてくれたらです、それを聞いたその場から実践するだろう。その事に取り組むだろう。それは生活が掛かっているからだ。
 どうでも大工なら大工の仕事を、この師匠さんから本当に習い覚えてしまわなければならんという、いうならば一生自分の生活が、この大工と云う仕事に掛かっているから、この仕事のこつはここぞ、ここよと言う事よく覚えとけよと言われたら、早速その事の稽古に掛かるだろう。まあいうならば先生あなた達がここに十何人並んでおるけど、なら皆一人一人がお道の教師を志すと言う事はね、まあ極端な言い方をすると、もう金光様の御信心によって、一生の云うなら生活が掛かって居ると言う事になるのです。
 まあ、おかしな表現ですけも、もうとにかく人が助かる事さえ出来れば良い、自分はどうでも良いということじゃないのだ。人が助かる事によって自分の生活と云うものは神様が見て下さるんだと、云うのですから、なら職人さん達がね大工さんやあ職人さんなどが仕事のこつはここにあるぞとこれを稽古せろと。ここの所に焦点をおいて稽古せよ言われたら早速取り組むだろうと。
 ならここで毎日こうやって研修をやらして頂いているが、もうそれこそ今まで聞いた事のない御教え、聞いた事もない教えをです、しかもこれは間違いなくおかげに繋がるぞ、お徳を受ける事に繋がるぞと説き明かされる。いうならば合楽教学である。昨日のこの新聞の中に本部にあった教学、金光教教学会というものが本部にあったのが解散しとります。そして是がその教学そのものが実践出来なければいけないと言う事になった。教学が頭で分かるだけではいかん。その教学は実践につながり。
 おかげに繋がると言う事は書いてありますが、私にもう一言いわせて頂くと実践につながるすぐ実行が出来る教学、しかもおかげに繋がるお徳に繋がるという教学じゃなからにゃいけない。そういう意味でなら合楽のみ教えは合楽教学である。今迄かってこういう哲学的に哲学よりもっと深いと言う事になりましょうか。私は昨日池田大作さん、創価学会の池田大作さんの人間革命という本を、二冊目を読ませて頂いて居る。なら此頃創価学会づいとると云うか、もうそれは一つも魅力はないです。
 もう悪口ばかりですからけれども私はあのもうとにかく、もう日連上人様だけが本当の信心であってもう他は全部邪教だとこういう。しかもあの沢山日連宗はありますよ、もうそれこそ何十とあるでしょう。宗派が日連宗の中にもそれも他のはもう全然駄目、創価学会だけでなければ本当のものではない外は邪教だ。日本がこうやって敗けたのもそういう例えば邪教を信心したから負けたんだという風に言っているです。
 だから結局お釈迦様の事と日連のだけしか知らんのだから、成程そういう行き方からいくと、そういう風にらしいですやっぱり、けれどもねここに教祖、だから私共が生神金光大神がです、居られると言う事を知らんのです。例えば金光大神の世界というのはです、最近云われるお釈迦さんがそれこそ哲学的な教えを沢山説いて居られます。いうならば霊徳面の信心をキリストは、もうそれこそ徹底して説いとります。そして大変にややこしく難しく難しくまあ説いとります。
 だからそれではです、だから教祖金光大神様はもう一つ深いものを頂いて居られるのですから、例えていうとこの天地書附です。もうこの天地書附は例えば創価学会の罰ということ。他の邪教を宗教をしたから日本人がしたから戦争に敗けたんだと。是はもう七百年前に日連上人が喝破してあったんだと、という風に言っておる訳ですけどね。ならキリストでもそうです。
 矢張り罪とか罰とか言う事をいわれますけれども、どんなに罪深いものであってもです罰を受けなければならない程しの人であっても、一たび金光大神の教えに触れて、なら今日言います天地書附といいますか、所謂和賀心を目指す事におかげを頂いたら、もう和賀心の前にはその罪も罰も消えて無くなるという程のものなのです。しかも教祖のこの教典の全てがですその和賀心を頂かせて頂く事の為の哲理です。
 ですから本当に創価学会の池田さんがです、本当に教祖金光大神の信心の神髄に触れられたらです、金光教になんなさるかも分からん。なんなさらなければおかしいです。けどそれをそれ程に現しきらず、説明かしきっていないと言う事です金光教は。そういう大変なものを頂いた。釈迦もキリストも説き得ていない所の物を説いてある金光大神のみ教えという物をです、そりゃもう罰を受けなければならない。罪を受けなければならないその理と云う物は、もうどれだけかあるか分からない。
 いつか頂いた様に、それこそ玉葱の根の様なものだ。それを引き抜くと大きな根球があって、その根の下には、沢山の無数の小さい根があるでしょうが。だからキリストが言うとる事も釈迦が言うとる事も嘘ではないのです。本当な事なら、だからどういう罪を形成すると云うか、その罰を受なければならない様な事になって居ってもです、キリストのこの球根一つに、例えば纏めてもです。
 金光大神のこの和賀心時代と言う事を本気で、例えば目指して貰うて和賀心にならして頂く事に精進さして頂いたら、それもみんな消えて仕舞うという。いわゆる金光大神の世界とはそういう世界なんです。本当に金光大神のいうならば世界を、かい間見るだけでなくて、その中に入ってそれを研究すると言う事になったら素晴らしい事でありましょう。今、毎日ここで毎日御理解を聞いて頂いたその御理解を、又午後に皆さんと一緒に研修をさして貰うて本当に素晴らしい。
 例えば教学だなと、しかも合楽の教学は実践に縋る事が出来る。しかもその実践にはおかげと徳が伴う事になっとる。そこでですその実践が出来るのだから、生活が自分に掛かって居るというと大変、生活のためにに金光様の先生になったごと表現になりますけども、解り易く言うならです、一生を金光教の信心に懸けてお道の教師になるならばです。その早速大工や左官ですら師匠が教えた事。
 是が例えば本当の仕事のこつだと言う様なことを教えられたら、早速実践するであろう様にです。皆さんの場合も只こうやって研修するだけでなくて、早速実践にその持って行かなければいけないというて話した事ですけど。そんならばですならお道の教師を志す者だけが実践するだけでなくてです、矢張りおかげも受なければならない、徳も受けなければならい。いうならば金光様の信者の全てがです。
 矢張りそういう心にならなければいけないと言う事。いや金光様の先生て等ならなくても、いいのでおかげさえ頂けばと言う様な事ではいけない。私の信者時代にです、例えば小倉の桂先生とか、石橋先生の様に高徳を受けられた先生方の、その御修行ぶりというものを、まあ聞かせて貰うたら、私は矢張り商売でおかげ頂きたいと思うておったのですけど、もう桂先生等がなさった様な修行をです、とても同じ人間だから出来ない筈はないというような着眼が、私はおかげを受けたと思います。
 信者時代に桂先生のなさった様な修行も真似事などでもさせて貰おう、石橋先生のなさった様な修行も真似事などでもさせて貰おう。福岡の吉木先生がなさった修行を一つ本気で取り組んでみろう。金光様の先生になろうとも何とも思うていなかった。けれども矢張りそれに取り組んだ様に、それなら皆さんもお道の教師を志しておるなら、矢張り日々御理解の実践どう言う事がもう結局はです、広き真の大道を開き見る事にもなれば、又は和賀心にもなれる事。
 その和賀心で一心に頼んで行くから間違いのないおかげになって来る。いうならばそういう神様の痒い所に手の届く様な信心をさして貰うから。神様が又氏子の上に痒い所に手の届く様なおかげを下さる事が出来るのです。神様がおかげ下さったら、こちらも神様のいうことも聞こうというのではなくて、神様の言われる事を先ず聞いて、そして聞いて貰える。そこから初めてあいよかけよの道と言う事が開けて来るのです。
 今日は二つのこの御神訓に基づいてこの二つの御神訓を、お話をするなら限りがない程しでしょうけれどもです。まあ教団でもまあようやく天地書附と言う事の、言わば素晴らしい事に気付かれて、そしてその実践をさして頂こうという運動が百年、百何十年振りに取り上げられたと言う事は実をいうたら不思議で不思議でたまらない事です。そして合楽で数年前からいっている和賀心時代を社会に広げて行こうという。
 言わば運動になって行く。それには先ず私共がです。疑いを疑おうにも疑えない神様を頂く事と、おかげの実践に依って期せずして頂けれる、和らぎ喜ぶ和賀心を愈々頂かして貰うて、そこから一心に今月今日で頼んで行く信心。そこにはおかげ世界がある金光大神の世界に住むる事が出来る。その金光大神の世界を私は社会に、こういうおかげを受けられる、と言う事をいうならば創価学会の人達にでもこういう進んだ信心があるんだよと言う事を分からせれる位な金光教の信心をです。
 教学的にも実践おかげの実証の上にも現して行く様な願いを持たなければいけません。それはもう大変大きな事の様ですけども、私は最近金光大神の世界に住む事と言う様な意味の御理解を頂きよりますから、そういうおかげを頂いてかくおかげを受けられると言う事だったら、誰でも付いて来るだろうと思います。罪やら罰やらに恐れおののいて信心して居る人達が、それこそ創価学会だけでも大変な事でしょう。その様な事よりも本当に和賀心を目指して行けば、よしそれがあっても消えてなくなる。
 それこそ霜に煮え湯をかける様に消えていける様な信心。それは結局はわが心教祖はそういう大変な事を教えて居られる。しかもならこの教祖の御教えの全てがです、和賀心にならせて頂く事の為の御教えである。それを私共は深く広く知らなかったから、しかもそれは実践にするには難しいと思うて居る所に、所謂今頃ぐらいに和賀心というて居るのじゃなかろうかと思うです。
 それかというて合楽で偉そうな事を言って居る事もです、皆さんの場合も本当に、例えば昨日私が修行生の方達に言った様に生活が掛かって居るんだと、これを覚えなければ自分も助からん、人も助からんのだと分かったら、矢張り日々のこの研修だけでなくて、実践、早速して行かなければいけないじゃないかと言う事をです。なら道の教師だけではない、合楽に御縁を頂いている全部の人がです、ここの実践を以ていうならば昨日の御理解をいうと、「耳掻きのありて、かりけり日向ぼこ」と。
 言う様なおかげを頂いたらです、昨日も高橋さんがあちらに退ってから私の着物をたたみながら、私が帯をほどいたら、これが(俳句を書いていた紙)落ちて来た。そこにそれでそれを拾ってから、先生大体この耳掻きのありてかりけり日向ぼこちゃどう言う事ですかと。それで私が今から私が繁雄さんから足を揉んで貰うが、この事ですよとこういう。もう本当にそういう例えば一事が万事におかげを、なら頂いてですよこういうおかげを受けられるから金光様の信心しなさいと言う事は。
 どう言う事かというとです。教えの実践を先ず先にする事だというです。そこからそう云う金光大神の世界に住むことが出来る様な、あれもおかげであった、これもおかげであったという心の状態が開けて来る精進を一生懸命すると言う事です。そこに和賀心を目指すと言う事にもなる訳です。だからねどうぞ皆さんがね、日々頂いとるその御教えが、その一つも難しい事じゃないです。
 実践すると言う事は、稽古をするならば楽しいものが生まれて来るです。そしてなら合楽の信者さんが先ずそれを、おかげを実証しながら。示現活動に参画して貰う様なおかげになって来なければならない。もう本当に胸がわくわくする様なです、おかげを一人一人が頂いて頂きたい。まあそんな風に思います。そこでなら例えば教団の行き方がそういう風に、言わば目的が定められたですから。
 ならその和賀心を先ずは自分が頂く事の為の信心と言う事になったならです、教祖の御教えを、愈々もっともっと今迄私達が今迄聞いた事のない程しの、言わば容易う実践が出来ると思います。まあ成程と合点が行く様に、昨日の御教えの最後の所に有ます様に、一心を立ればすぐにおかげが受けられるという、こういう御理解なんか今迄私達は頂いた事がなかった。一心を立ればすぐにおかげが受けられるという一心を立てての信心にならなければならんと言う事ですね。
   どうぞ。